浅原神社鳥居の社額掲額のこと

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浅原神社鳥居社額掲額にあたり、古き片貝郷土史の一編として参考になればと浅原神社 第一区社務長 山口 亘 様より戴きました。

浅原神社鳥居の社額掲額のこと
平成30年9月3日浅原神社鳥居社額の掲額清祓祭を挙行した。この社額は、従来の楠木欅製のものを模写し、15〜10cm小型化アルミ合金製で作成、常時掲額することとなりました。
一の鳥居「鎮守」、二の鳥居「浅原神社」 特に二の鳥居の「浅原神社」に花文字が使われていることは注目することである。 神社由来記には、神社石造標柱の社名筆者はあるが、鳥居社額についてはない。 少々確認したところ、次のことが判明した。
一の鳥居「鎮守」は、裏書きに「神祇道管領卜部朝臣良芳」とある。白川家が神祇道の長官とされるが、神道に関する専門的な知識、技術は「神祇管領長上」として吉田家(卜部家)がある。吉田神社・吉田神道の元締めである。(吉田兼好も卜部家神祇管を務めたことがある。)
この社額の筆者であるが、天保15年6月14日(1844)宗源神宜。若一王子大権現、右宜奉 称浅原神社神宜之状に神祇道管領長上侍従卜部朝臣良芳とあることから、このときの筆者と考えられる。
なお、吉田家・吉田神道についての古文書資料は博物館・大学研究に散逸し吉田神社にはなく、神社は伊勢神宮の別帖格神社とされている。
次に、二の鳥居の「浅原神社」(花文字)であるが、裏記に四海波平風不條鳴萬民楽業以賽神明。明治壬辰(24年)之春 献額 小野塚彦四郎敬白とあり、町裏、彦兵衛家である。
ちなみに、木の大鳥居(権現鳥居)文化9年(1812)再建とあり、参道入口の石の大鳥居は、安政2年(1856)建立とある。
一の鳥居・二の鳥居の社額の掲額の順は、不明だが宝暦年間(1760)に村の総鎮守としたことから初めの一の鳥居に鎮守としたのではないかとおもわれる。 天保から安政までの間一の鳥居の存在が不明だが、なかったら現二の鳥居の木製鳥居に取り付けていたのではなかろうか。 それまでの社額は分らないが、明治24年献奉により、現在の掲額となったと思われる。
今までの社額は木製であり、重量物であって春季・秋季例大祭に取り付け、取り外しを行っていた。 今回のアルミ合金製社額は、日研シェルモルード品川政明(三之町)で製作された。
               平成30年10月20日
               浅原神社 
               第一区社務長  山口 亘  記


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